明治の終わり頃、奈良に棚田嘉十郎という植木職人がいました。
嘉十郎は奈良公園の植木を手入れしながら、観光客から
平城宮址の場所を尋ねられると、
「法華寺あたりがそうだ」
と答えていました。
ところが都跡村の知人から、都跡村が
平城宮の跡だと教えられ現地に行ってみると
「大黒の芝」や「十二堂の芝」など宮殿ゆかりの地名が残っているものの、
平城宮の跡には田畑が広がり、かつての首都であった平城宮は見る影もありませんでした。
それから、観光客から平城京の場所を聞かれるたびに、なんとかして
平城宮の跡をきちんとした形で残していかなければならないと思いました。
そんな時、建築史家である関野貞は北浦定政を研究し、田んぼの中にある小高い芝生の段を発見。
明治40年(1907)「平城京及大内裏考」を奈良新聞に発表。
この論文に後押しされ、嘉十郎は私財を投じ、平城宮址保存に残りの生涯を賭けることになります。
さっそく跡地の買収にのりだしましたが、
すでにそこで生活している農民たちから土地を買い取ることは容易ではありませんでした。
さまざま人の協力を得ながら、平城宮址保存に奔走していましたが、
大正10年に彼の信頼していた仲間に裏切られることとなります。
実直だった嘉十郎は、身の潔白を示すため割腹自殺をはかり、その生涯を閉じました。
その後、彼の支持者によって引き継がれたこの運動は、
大正11年に
平城宮跡は「史蹟名勝天然紀念物保存法」となり実を結びます。
そして、国の史跡として保護されることになりました。