鹿児島には旧薩摩藩から明治政府へ引き継いだ武器弾薬製造所や造船所があり、そこに大量の武器・弾薬が保管されていました。明治10年1月30日夜、激昂した一部の過激な私学校生徒が、現在の鹿児島市草牟田にあった陸軍火薬庫を襲撃しました。学校の生徒の暴発を恐れた政府は、武器弾薬を大阪に運ぼうとしました。
これを察知した私学校の生徒が、「これは我々のものだ」と言って、ここを襲ったのです。これが発端となり、西郷は西南戦争の首謀者に担がれ、賊軍として生涯を閉じるのです。
その騒動が飛び火して、過激な私学校生徒らは、磯の集成館、坂元、上之原などの火薬庫を次々と襲い、鹿児島市内は火を放ったような大騒動となりました。石碑の山側は墓地になっています。