西南戦争の末期には政府軍の屯営地となっていました。こちらから山県有朋が薩軍への最後の総攻撃指令を出しました。本館の敷地裏手に「明治十年戦役官軍屯営地跡」の碑がひっそりと建っています。
西南戦争後、鹿児島授産学校や煙草専売公社工場などが設立されその後、市の所有地となり、昭和12年に鹿児島市役所本館が完成しました。大量の武器・弾薬、そして兵糧が蓄えてありました。
鹿児島に帰ってきた薩軍は、政府軍の守備が整わぬうちに、米倉に駐屯する官軍を撃退し鹿児島全土を占拠する。との貴島清の提案で、米倉夜襲を決議しました。米倉には巡査200名、海兵120名、新撰旅団の歩兵二中隊及び砲兵が在駐していました。夜襲は、失敗し、貴島清ら百余名の抜刀隊の大半が討死しました。