1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっており、岡山市にある後楽園と全く同じである。
7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がる。
また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山も採り入れている。光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚である。
1869年(明治2年)の版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となった。(この名残で現在でも砲兵工廠の遺構のいくつかを園内で見ることができる)1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く、世界的にも名園として知られるようになった。
1923年(大正12年)3月7日、国の史跡および名勝に指定された。指定の際、岡山市の後楽園と区別するため「小石川」を冠した。1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されている(有料)。
なお、1937年に隣接する旧東京砲兵工廠跡地にプロ野球興行を主たる目的として造られた野球場は小石川後楽園にちなんで「後楽園球場」と名付けられ、さらに同じ敷地内にできた遊園地や多目的ホールなどにも同じように「後楽園」の名が冠されている。