社伝によると和銅二年(709)の創祀。
式内社・鍬山神社の比定される古社で
鍬山大明神とも矢田社とも呼ばれた神社。
往古、当地は大蛇の住む泥湖であった。
そこで祭神・大己貴命が、八神を黒柄山に集めて協議し、
みずから鍬を持って浮田峡(保津峡)を切り開き、肥沃な農地としたという。
里人は、その神徳を慕い、天岡山の麓に大己貴命を祀ったのが起源。
また、医王谷に住んでいた医王・丹波康頼が
医療の祖・大己貴命を祀ったとも伝えられ、
社田として、楽田・油田・華田・八日田・相撲田・馬場田・雑用田・奉射田の
八種の田を献上したことから、八田と呼ばれ、矢田となったという。
以上のように、もとは医王谷付近に鎮座していたが
慶長十五年(あるいは寛正年間)、現在の地に遷座したらしい。
また、境内の八幡宮は、社伝によると永万元年(1165)四月八日
天岡山に降臨された神であるという。
このように、大己貴命の招集した八神、
丹波康頼が献上した八田、天岡山に降臨した八幡神など
八が当社のキーワードになっているようで興味深い。
亀岡市東部にある桑田神社では、当社祭神と協力して
鍬で保津峡を開いたと伝えられている。
当社の神事である山鉾行事は祇園祭として有名らしい。
また、陰年には亀山城内に、陽年には稲荷社の前に神輿がしばらく留まったと
「矢田社之祭法」に記されているらしい。
鍬山神社と八幡宮の社殿前の祭神名には、最尊人格大神と書かれ
鍬山神社には蔭、八幡宮には陽と記されていた。
当社では、蔭と陽という対比で祭祀が行われているのだろうか。
鍬山神社の神紋は兎紋。
祭神・大己貴命(大国主命)が助けた因幡の白ウサギだろうか。
八幡宮の神紋は、神使の鳩紋だ。
当社の神事芸能のとして「猿楽」が行われ各地で興行されたらしいが
明智光秀の丹波進攻で衰退したという。
境内社の百太夫神社は、その猿楽と関連があるのだろうか。
ただし、同じく亀岡の走田神社境内にもあるので
亀岡では一般的な社名のかもしれない。
鳥居をくぐった場所に並んでいる境内社は、
金山神社、樫船神社、高樹神社、日吉神社、熊野神社、
稲荷疱瘡神社、愛宕神社、天満宮。
その中央に「安産石」と記された石も祀られている。
また、境内の神池の中にも小祠があるが厳島社だろう。
安産石の横にも小祠がある。金山社だろうか。