西郷隆盛が島津斉彬の死後、尊皇攘夷派の僧、月照とともに錦江湾に飛び込み自殺を図ったものの救出され、西郷のみが息を吹き返しました。そのとき蘇生したといわれる家を復元したものです。
安政5年(1858年)ときの大老井伊直弼によって一橋派や尊皇攘夷の活動家らを断圧した、安政の大獄が始まりました。また西郷隆盛の最大の庇護者、28代薩摩藩主島津斉彬は公武合体、一ツ橋派の中心人物でしたが5月突然死去しました。
安政の大獄の取り締まりが厳しくなる中、尊皇攘夷派の僧月照が西郷を頼って薩摩に逃れてきました。
しかしながら薩摩藩は幕府の追求を恐れ、月照を東目筋送りとしました。東目筋送りとは鹿児島市を出発し、姶良市加治木町を通過し宮崎市高岡町の去川の関を出たところで切り捨てる刑罰でした。
11月16日夜半西郷隆盛はこれを悲観し月照とともに鹿児島湾の竜ヶ水沖で船から身を投げました。