大阪府大阪市北区に鎮座する神社(天満宮)は、大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。
現在のご本殿は、天保14年(1843年)に再建された物ですが、大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期に村上天皇が、菅原道真の怨念をおさめるために勅命を以て鎮座させたといわれています。
菅原道真は、もともと中流貴族の学者の家系で、大変頭の良い人でした。
天皇を中心とした理想の政治体系を作ろうとし、時の天皇の宇多天皇に重用され、実質閣僚ナンバー2の右大臣まで上り詰めました。
しかし、延喜元年(901年1月25日)政治の上で敵対していた藤原時平などが、宇多天皇の次に天皇になった醍醐天皇に、
「道真は醍醐天皇を天皇の座から引きずり下ろして、前天皇の子供で自分の娘婿を天皇にしようとしてますよ」
などと吹き込み、道真を陥れました(宇多VS醍醐の争いに巻き込まれたという説もあります)。
醍醐天皇は怒って、道真の子供のうち4人を島流しにしてしまい、昌泰4年(901年)道真は九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになりました。
道真は摂津中島の大将軍社に参詣した後、九州太宰府に向いましたが、左遷先の大宰府で2年後、わずか59歳でその生涯をとじました。(延喜3年/903年2月25日)
その後京都では、藤原時平が病死し、続いて東宮(今の皇太子)の死亡も死亡しました。
さらに、御所での会議中に落雷があり、朝廷の重要ポストにいた人たちに多数の死傷者が出ました。
そして、道真が大宰府に向かう前に参拝した大将軍社の前に、突然七本の松が生え、その梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったと言われます。
「これはきっと、あらぬ疑いをかけられて陥れられた道真の怨念に違いない」
藤原氏が左遷して道真を大宰府に送った後に死んだので、それ以降、藤原一族に起こる不幸は道真の祟りだと思い込み、古来日本では、祟りを封じるには祟るものを神様にしてしまうのが慣わしだったので、道真は文官学者として秀でていたので学問の神様になりました。
道真の怨霊を鎮めるために、朝廷は道真に「火雷天神」という称号を贈り、火雷天神社(現在の北野天満宮)を創建し、道真の霊を祀りました。
天神の称号は雷などの自然現象を道真の怨霊が司ったと考えられたからです。
その後、室町期の頃に数名の禅僧が中国に留学しました。
当時中国には無準(ぶしゅん)禅師という、国内外からも篤く尊敬を集めている名僧がいました。
中国での信仰対象の最高位は”天”でありますが、無準の偉大さを喧伝するために最高神である”天”でさえも無準の元に参禅し、修業をしたという伝説がありました。
日本からの留学僧たちはこの「天神参禅伝説」を日本に持ち帰り、天神たる菅原道真公の無準禅師参禅伝説をひろめました。
これ以降、道真公の生前の学績や功績なども併せ、禅文化(五山文学)に通ずる神として禅宗の僧侶たち、及び禅宗の信者が多かった武士などの知識階級の人たちの信仰を集めるようになり、現在のように学問の神として広く信仰されうようになっていったと言われております。