瀬戸内海の水運により大陸と結び、淀川や大和川をさかのぼって古代の政治の中心である大和や河内に直結する難波は、交通の要所でした。
その中心である上町台地の北端にあたるこの地から、1987(昭和62)年に行われた発掘調査で5世紀後半頃の巨大な建物群が発見されました。
16棟以上の高床建物が整然と建てられており、1棟あたりの規模は桁行(幅)が約10m、梁行(奥行き)は9mです。
面積は約90平方メートルと、当時としてはきわめて大規模な建物でした。
柱配置の特徴から、屋根の形は入母屋造りになると思われます。
建物群は東西方向に棟を揃え、厳密な計画のもとに建てられていました。
百舌鳥や古市に巨大な古墳を築いた大王が、強大な権力を内外に誇示するためにつくったものと思われます。
6~7世紀には、この付近一帯にたくさんの建物が建てられるようになります。
難波津とよばれる港を中心として、この辺りは物資の一大集散地として発達しました。
また、中国や朝鮮からの外交使節を迎えたり、遣隋使や遣唐使が発着するなど、海外に開かれた玄関として古代史上に重要な位置を占めました。
[説明文より]