宇治川東沿いのこのあたりの地名を「又振(またふり)」という名前で呼ばれていたため、末多武利神社と名づけられました。
「宇治」は無常を意味する「憂し」に通ずるともいわれ、藤原一族の栄華の舞台となる一方、この宇治の地は失意に打ちひしがれた人々をも受け入れてきました。
宇治民武卿と呼ばれた藤原忠文もその一人で、天慶2年(940)平将門の乱鎮圧のための征東大将軍に任ぜられ東国に向かったが、到着前に既に平将門は討たれていました。
大納言藤原実頼の反対により恩賞の対象から外されたので、忠文は実頼を深く恨み、死後も実頼の子孫にとりついて祟ったといいます。
末多武利神社は、その忠文の霊を鎮魂する祠といわれています。