日本海に突き出た成生岬の貧しい寺に生まれた溝口(「私」)は、僧侶である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされ育った。父から繰り返し聞く金閣寺の話は、常に完璧な美としての金閣であり、溝口は金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。
体も弱く、生来の吃音(きつおんしょう・発語時に言葉が連続して発せられたり、瞬間あるいは一時的に無音状態が続くなどの言葉が円滑に話せない疾病。)のため自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、極度の引っ込み思案となり、人から愛されなかった。内攻したコンプレックスのために、海軍機関学校の生徒が持っていた短剣の鞘に醜い傷をつけたこともあった。また、官能的で美しい娘・有為子に嘲られ、軽蔑されたこともあり、女と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じ、青春期らしき明るさも恋愛もすべて抛棄して生きていた。
やがて溝口は、病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が住職を務める金閣寺に入り、修行生活を始めることとなった。金閣を見たことがなかったときは、様々に金閣の美を想像していたが、いざ実物を見てみると心象の金閣ほど美しくはなかった。しかし、戦争が激しくなり、自分も金閣もろともに空襲で焼け死ぬかもしれないと思うと、金閣は、「悲劇的な美しさ」を増してきた。溝口は、室町時代から続く金閣寺を、永劫に続くと思われながらも、実はいつ破壊されるとも限らない完璧で永遠の儚い美として捉えていた。そしてその観念は、自己の不遇と孤独の中で実際の金閣よりも遙かに強力な精神的な美として象徴化し、固定化していた。一方、病に衰えていた父が死んでから母は、一生懸命勉強して金閣寺の住職になれと溝口に野望の火を焚きつけようとする。母はかつて、溝口が13の時のある夜、同じ蚊帳の中で父と子も寝ているそばで、親戚の男と交わっていた。目が覚めた息子の目を、父は後ろから手で目隠しをした。
同じ徒弟生活で出会った同学の鶴川は、溝口と対照的な明るい青年だった。彼は溝口の吃音を馬鹿にしない唯一の友であり、溝口の心の陰画を陽画に変えてしまう存在でもあった。戦争末期のある日、2人は南禅寺の天授庵の茶室で、一人の美しい女が軍服の若い陸軍士官に茶を供しているのを見た。女は男に促され、自身の乳房から乳を鶯色の茶に注いだ。溝口はその女に有為子を重ねた。
やがて、戦争が終わり、金閣と「私」こと溝口とが同じ世界に住んでいるという夢想も崩れた。金閣寺のまわりには娼婦を乗せた米兵のジープなど俗世のみだらな風俗が群がるにいたった。溝口は住職の老師の計らいで入学した大谷大学(仏教系大学)で、足に内反足の障害をもち松葉杖をつきながら移動する、いつも教室の片隅でひっそりとたたずんでいる級友・柏木と出会う。一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた溝口だったが、柏木は実は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、高い階層の女を次々と籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、それどころか利用さえして確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木の姿を、当初は全く理解し難いと思っていた溝口だが、精神的な距離を置きつつも友人を続けていた。柏木の溝口への批評はいつも心臓を抉り出す様に残酷で鋭く、溝口の心の揺れや卑怯を常に蔑み、突き飛ばすものであった。溝口は、そんな柏木から女を紹介されるが、女を抱こうとすると目の前に金閣の幻影が立ち現れ、失敗に終わった。
もう一人の友人の鶴川が死んだ。「事故」ということだった。溝口の孤独な生活が又はじまった。しかし、そんな中でも、柏木から禅問答「南泉斬猫」を巡る彼の持論解釈を聞いたり、尺八を教えて貰うことで、まがりなりにも若い自分の人生の1ページを刻んでいた。そして再び、柏木の計らいで、女を抱く機会を与えられる。その女はいつか天授庵の茶室で見たあの女だった。しかし、またしても女の乳房の前に金閣が出現し、溝口は不能に終わる。溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。
溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、菊の花と戯れる蜂を見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。その時、ふと、自分が蜂でなく人間の目に還ると、それはただの「菊」に変貌した。その蜂の目を離れた時こそ、自分が金閣の目をわがものにしてしまい、生(女)と自分の間に金閣が現れ、性的な自己の存在を無価値化してしまうという構造に行きつく。このように金閣(虚無)の目で見、変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占領し、この余のものを砂塵に帰してしまうことを溝口はおぼろげながら確信してゆく。
正月のある日、溝口は雑踏の中で、女(芸妓)連れの老師に偶然、行き会ってしまう。追跡されていたと誤解した老師は溝口を叱咤した。しかし、明る日は呼び出しもなく、溝口には釈明の機会もなかった。その後も無言の放任が続き、溝口を苦しませた。以前、溝口が米兵に命令され娼婦を踏みつけ、後で女からゆすられた時も老師はなぜか溝口を不問に附していた。溝口は老師を試そうと、愛人の芸妓の写真を、老師が読む朝刊にはさみ、憎しみを誘うことで老師との対峙を待った。自ら、後継住職になる望みを永久に失うことになる糸口をつけながら、その一方、溝口は人間と人間が理解し合う劇的な熱情の場面も夢想し、ゆるされることさえ夢みていた。だが写真は無言で溝口の机の抽斗に戻された。
これらのわだかまりが累積し、次第に溝口は学業の成績も落ち、大学も休みがちになっていった。溝口は自ら決定的に将来の望みを断ち切ってゆく。学校からの注意が老師にもいった。寺に修行に来た当初は父の縁故で老師に引き立てられ、ゆくゆくは後継にと目されていた溝口だったが、ついに老師から、もう後継にする心づもりはないとはっきり宣告された。老師は溝口に、芸妓の一件のことについても、「知っておるのがどうした」と開き直る。
溝口は柏木から金を借り、寺から家出した。舞鶴湾に向かい由良川から裏日本海の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念を掴む。由良の宿で不審に思われた溝口は警官に連れられ金閣寺に戻された。息子が金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた母は、必死に住職に謝ることで息子の将来をつなごうとあがいていた。醜く歪んだ母の顔に、溝口は「不治の希望」の醜さを見る。
孤独を増す溝口に、柏木は破滅的なものを感じ、鶴川から死の直前に届いた手紙を見せる。溝口には柏木との交友を非難しながらも、鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていたのだった。鶴川は翳りのない心を持っていると認識し、信じていた溝口にそれは少なからず衝撃であった。柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する。
溝口は、老師が訓戒を垂れる代わりに施した金で五番町の遊廓に女を買いに行った。金閣を焼こうという決心は死の準備に似ていた。万一のときのためカルチモン(催眠薬)と小刀も買った。その日が来た。その夜は、寺に福井県龍法寺の禅海和尚が来訪していた。溝口は和尚に「私を見抜いてください」と言うが、和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。溝口はその言葉に、初めて空白になり、隈なく理解されたと感じ行動の勇気が湧く。
溝口は、金閣寺放火の行為の一歩手前にいた。そのとき眺めた金閣寺は、燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、たぐいない虚無の美しさにかがやいていた。溝口は金閣寺に火を点けた。燃え盛る金閣の中で溝口は突然、究竟頂で死のうとするが扉はどうしても開かなかった。拒まれていると確実に意識した溝口は、戸外に飛び出し逃げた。一仕事終えた人のように溝口は、「生きよう」と思った。