黒田 官兵衛
頭が良すぎたのが仇となる!?豊臣秀吉の参謀として活躍した天才軍師
豊臣秀吉の天下統一を支えた天才軍師。
竹中半兵衛と双璧をなし、「両兵衛」と呼ばれ称された。
秀吉を支えながらも、本人も天下取りの野心を持っていたと言われる。
本能寺の変が起こった際には、
「秀吉様、ご運が開けましたな。天下をお取なさいませ」
と言い、「中国大返し」を進言。
後に秀吉は天下統一を成し遂げるが、
官兵衛のあまりの頭のキレの良さに警戒を強め、忠義を尽くしていたにも関わらず冷遇され始める。
秀吉の死後、関ケ原の戦いにおいて天下統一を目論むが、
奇しくも息子の長政によりその計画も実現ならず。
長政は、関ケ原の戦いの功労に家康が自分の手を取り、何度もお礼を述べたことを話すが、
なぜ、その時左手で家康を殺さなかったのか、と天下統一の機を逃したことを伝えた。
晩年は隠居生活を送り、慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。
竹中半兵衛と双璧をなし、「両兵衛」と呼ばれ称された。
秀吉を支えながらも、本人も天下取りの野心を持っていたと言われる。
本能寺の変が起こった際には、
「秀吉様、ご運が開けましたな。天下をお取なさいませ」
と言い、「中国大返し」を進言。
後に秀吉は天下統一を成し遂げるが、
官兵衛のあまりの頭のキレの良さに警戒を強め、忠義を尽くしていたにも関わらず冷遇され始める。
秀吉の死後、関ケ原の戦いにおいて天下統一を目論むが、
奇しくも息子の長政によりその計画も実現ならず。
長政は、関ケ原の戦いの功労に家康が自分の手を取り、何度もお礼を述べたことを話すが、
なぜ、その時左手で家康を殺さなかったのか、と天下統一の機を逃したことを伝えた。
晩年は隠居生活を送り、慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。
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訪問者数:22人
姫路城
黒田家の時代にも小さな城があり、官兵衛はここで誕生した。三木城落城後、そこを居城としようとした秀吉に、官兵衛は中国攻めの拠点にふさわしいと姫路城を明け渡し、秀吉はここに三重の望楼式天守を持つ姫路城を築城。天下取りの足がかりとした。
訪問者数:0人
松原八幡神社
羽柴秀吉がこの地を平定したとき、この神社を城南の芝原に遷すように命じた。そのときに秀吉に松原は由緒ある地だと諭し、この地での存続を懇願したのが、名軍師・黒田官兵衛だといわれている。
訪問者数:0人
国分寺
阿閇城の戦いの後、毛利の大軍が上月城を囲んだため、秀吉らは救援に赴いたが、その隙に乗じて別所勢が姫路城を陥れようとしたため、官兵衛は急きょ姫路に引き返し、国分寺に拠って撃退したと伝えられる。
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