聖護院は900年前に現在の場所に建てられましたが、4回の火災で市内を点々とし、約300年前今の場所になりました。
明治までは西側に聖護院村があり、鴨川にかけてうっそうとした「聖護院の森」が広がっていました。
その森の中にある御殿であることから、「森御殿」ともよばれ、 今でも近所では「御殿」と呼ぶ方もあります。
この森の紅葉は、錦の織物の様に美しい為「錦林」と呼ばれ、「聖護院」と共に今も地名として使われています。
聖護院の南西にある熊野神社は、平安時代に「聖護院の森」の鎮守として祀られ、 若王子神社、新熊野神社と共に「京の熊野三山」として崇敬されていましたが、 応仁の乱(1467)で焼失、1666年聖護院道寛法親王によって再興されました。
聖護院大根や八つ橋はこの聖護院村で作られていたことから「聖護院」の名が付いています。
1734年11月16日、この森で呉服商の井筒屋伝兵衛23歳と、先斗町近江屋の遊女、お俊20才の心中がありました。
浄瑠璃作家の近松半二は、この事件をまとめ、「近頃河原達引」という作品、いわゆる「お俊・伝兵衛」を発表、現在も時折上演されています。
天台の第5代座主、智證大師円珍(814-91)が、 熊野那智の滝に一千日篭居をされた後、熊野より大峰修行を行われました。
その後大師の後を継ぎ、常光院の増誉大僧正が大峰修行を行われ、 修験僧として名をはせました。
この増誉大僧正は、寛治4年(1090)の白河上皇が熊野三山を参詣する熊野御幸に際して先達を務められ、その功績によって聖体護持の2字をとり、 聖護院という寺を賜ったのが聖護院の始まりです。
増誉大僧正は、この時熊野三山検校職に任命され、 本山派修験の管領として全国の修験者の統括を命じられ、 聖護院の最盛期には全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となりました。
この後上皇によって行われた熊野御幸の案内は代々聖護院大先達が勤め、 「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われるほど、熊野詣は盛んになり、また愛宕山も修験の行場として栄えました。
後白河天皇(1156-58)の皇子、静恵法親王が宮門跡として入寺した後、 明治維新まで37代門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった皇室と関係の深い寺院です。
しかし応仁の乱で焼失、洛北岩倉へ移ったあと再び火災に遭います。
その後市内烏丸今出川に建てられた伽藍も延宝の大火で延焼、同4年(1676)に旧地に復しました。
現在の建物はこの時のものですが、役行者一千三百年御遠忌を記念し、 全国の教信徒の協力を得て数年をかけ修理、平成12年に完成しました。
法華経(妙法蓮華経)、不動経(稽首聖無動大威怒王秘密陀羅尼経)、般若経、錫杖経(得道梯橙錫杖経)を読みますが、天台宗の影響を受け、法華懺法や例時作法(阿弥陀経)も日課としています。
修験道の思想からすると、宇宙一切の事象や音声は皆法身の顕れであると考えられ、ありとあらゆる全て経でないものはないと考えます。