寛永12年(1635年)、キリスト教の普及と植民地化を避けるため、江戸時代の鎖国政策により中国人住居地区が設置されました。
1684年、清朝が遷界令を撤廃すると密貿易が増加したため、幕府が所有する御薬園の土地に唐人屋敷(中国人居住地区)を建設しました。
広さは約9,400坪、2000人程の収容能力があり、周囲は堀と塀で囲まれ、大門の脇には番所が設けられ、日本人の出入りは原則禁止となりました。
天明4年(1784年)の大火で関帝堂を残して全焼します。明治維新後、唐人屋敷は廃止され在留中国人は港に近い新地蔵所跡地に移住、中国人街を作ってきたのが「長崎新地中華街」です。
唐人屋敷跡には、明治期に修復改装された土神堂、観音堂、天后堂の3堂の遺跡と、明治元年(1868年)に福建省州出身者の手によって建てられた旧ハビン会所、明治30年(1897年)に改装、改称された福建会館があります。
唐人屋敷さるく展示室には昔の地図や絵、唐人屋敷模型(江戸時代後期)などをみることができます。